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『人間失格』太宰治

更新日:2021年10月22日

恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。

                      (『人間失格』第一の手記冒頭部分)

私がこの作品を読んだのが2010年の当時13歳。

表紙に惹かれたという単純な理由で読み始めたのですが、、、


「何これ・・・ブッとんでる・・・」

タイトルからブッとんではいますが、13歳の私にとって、この作品の始まり方は、あまりにも衝撃的でした。

24歳になった今でも、あのときの衝撃を決して忘れることはありません。


さて、今回、私は超名作である『人間失格』の「これを知っておくとさらに面白くなるポイント」を2つご紹介しようと思います!


①「この物語が完全フィクションではなく太宰治自身を投影した遺作」と言われていること

主人公の「大庭葉蔵」と「太宰治」には以下の共通点があります。

・青森県出身で父親が政治家

・東京大学に通っていた

・非合法運動に参加していた

・心中未遂を起こしたり自殺未遂を何度も繰り返した  など・・・


この「太宰治」の人生と「大庭葉蔵」の人生は、あまりにも似ているところが多いのです。

しかし、太宰治は『人間失格』の発表と同時に入水自殺をして亡くなったため、本人が本当に自分自身を題材にして書いたとは断定できず、真意は、“永久に解かれることのない謎”として、私たちが生きる現代に引き継がれています。

どこがノンフィクションで、どこがフィクションか、考察してみながら読んでみるのも面白いです。


②「人間の尊厳」について問題提起している作品であること

「尊厳」とは、『日本国語大辞典』によると、

尊くおごそかなこと、重々しくいかめしいこと。また、そのさま。

ちょっとまだ意味が難しいですね・・・。

私はこの意味を聞いてもすんなりわかりませんでした(笑)

簡単に言うと「尊重」という意味に近いです。


ちょっと堅苦しい話になりますが、日本国憲法には3つの原則がありましたね。

(中学校の公民で習ったと思いますが、覚えているかな?)

「基本的人権の尊重」

「国民主権」

「平和主義」

そのうちの「基本的人権の尊重」は国民一人一人が独立した個人として尊重され、幸福を追求する権利もまた尊重されるというものです。

しかし、主人公の葉蔵にはその「人間の尊厳」がされなかったと思います。


つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。「自分の幸福の観念」と、「世のすべての人たちの幸福の観念」とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。

                        (『人間失格』第一の手記より)


我々は必ず何かの“共同体”に属していきます。

それは家族、学校、会社など・・・

そこに属していくためには周りに合わせていく、つまり、空気を読んだり、時には自分の本当の気持ちを我慢しながら一緒に過ごしたり。

「多数の人が考えている・行っているものが正しい」と決めつけ、世間ではまだ「幸福の最大化」第1回Ever Class「世界のどの場所に生まれても、世界最高の授業が受けられる世界」参照)が多く存在していると思います。

主人公の葉蔵は、たまたま少数派に立ってしまっただけかもしれない。

そして、その悩みを理解してくれる人が近くにいなかった。


現代でこそ、SNSなどが普及して、誰もが自分の声を発しやすくなったものの、その分、私たちは、少数派を批判することも簡単にできてしまいます。

「理解できない」だとか「理解を越えている」といったことを根拠として、そういった人々を苦しめてしまうときもあるかもしれない。

つまり、「そういった人々の尊厳」を、知らず知らずのうちに踏みにじっているのかもしれない。


果たして読み終わった後、葉蔵に共感や同情を抱くのか、それとも反感や嫌悪感を抱くのか。



太宰治の作品は青空文庫で無料で読めるので是非一度読んでみてください!

(著作権法により没後70年経つと著作権が消滅するため、無料で読めるのです。)


「いや~私は紙で読みたいわ~」っていうそこのあなたは、

私も文庫本を持っているので貸すのも大歓迎ですし、

文庫本自体もとても安く手に入るので1冊は手元にあってもいいかなと思います!

(借りたい人はコメントするか直接声かけてね(^^))



参考文献

・坂上幸「「人間、失格」者が語る「人間」批判ー太宰治「人間失格」ー」

 2019年3月16日 『大妻国文』

・中畑邦夫「どうか、わたしの言葉が、書き留められるように…ー太宰治『人間失格』につ

いてー」2016年3月20日『国士舘哲学』

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